セミ

夏の風物詩、セミ。子供の頃、捕まえるのに躍起になって、虫かごをぶら下げて近所の木々を探し歩いた方も多かろう。それが今では、暑苦しさを助長するうっとおしい BGM にしか聞こえない。
セミの声といえば、芭蕉の句である。仙台と山形を結ぶ仙山線で行ける山寺での一句。彼が聞いたのはニイニイゼミアブラゼミだったらしい。日本最大のセミクマゼミは東北にはいない。東北どころか関東にもいなかった。いまもここで聞こえているセミの声は、ニイニイゼミである。
子供の頃、帰郷した近所の子が捕らえてきたクマゼミを見せびらかされて、その大きさに驚き憧れて探したがこの辺では見つからなかった。その子の田舎は千葉の山の中だったと記憶している。近年の環境庁自然環境局の調査によると、埼玉は球磨蜩の北の限界以北に位置するらしい。千葉にはかろうじて居るようだ。
この分布がそっくり当てはまりはしないものの似ているのは、公立高校の全共学府県か。クマゼミのいない県には公立の男子校、女子高がある。
球磨蜩ではなく熊蜩だと思い込んでいたが、今回検索して熊本の球磨だと知った。
セミといえば日本では芭蕉だが、西洋ではプラトンの『パイドロス』である*1ギリシアセミはいるが、長らく中央ヨーロッパの「セミ」は存在しないと信じていた。信じるとは信念である。信念に科学的根拠は必要ない。link 先の記述がこうした信念の一応の根拠であった。しかし net とは便利なもので、この信念は続く記述によって覆された。しかし北欧やイギリスにセミがいないのは確かなようである。地震を科学知として持っていても、それを体験した事がないなどという、我々からすれば納得し難い人々が存在するように、セミの声を聞いた事のない人々がこの世にはいるのである。

*1:ある夏の日、イリソス川のほとり、プラタナスの木の下、セミの声がするもとで語られる、「人は自分を恋する人に身をゆだねるべきか、恋していない人に身をゆだねるべきか」で始まる対話編。作中に幾度かセミの声への美しい言及がある。そのうちの一つ。セミたちはかつて人間であった。ムウサの女神たちが生れると、歌う事の楽しさに食事を摂る事も忘れるほどに歌い続け、それと気付く事もなく死んでいったというのだ。こうした人間たちから生れたのがセミであるというエピソード。