公開ということ

この話題は、私の最近の仕事とは関係がないことを、再度最初に断わっておく。
あちこちで外国語、主として英語の記事/blog エントリを訳して公開している人がいる。その多くは個人的メモとか試/私訳と称しているが、実際にどう読まれるかを公開する人が知らないはずがない。はっきり言えば、早く公開すればするほど多くの人が読むだろうということを良く知ってそうしている。多くの人に読まれるであろうことが無償の労働の原動力になって、多少自分自身にもあいまいなところがあっても、誤魔化してとにかく早く公開する。そうしないと多くの人が読んでくれないからだ。
その結果、どういうことが起きるかは知ったことではない。何せ、個人的メモであり、誤訳が含まれると注意書きもしてあるのだから、免責されるはずだと一方的に何の根拠もなく信じて疑わない。疑いがあったら公開などしないだろう。
個人的メモならローカルに置いて自分だけで参照すればよい。HDD がクラッシュした時に備えて、簡単にアップロード出来る blog に書きとめておきたい場合でも、たいていの場合非公開設定に出来るから、自分用ならそれで十分だ。よって他人が参考するのを前提にして公開していると断じて良いだろう。
他人のしていることをとやかく言わないでおこう。しかし個人的閲覧利用に、公開がどこまで必要なのか、考えてみるべきではないか。一度広まった誤解をとくには、数倍の時間と労力が必要なのだから。
[追記;09/27]
ネットは見分ける目を持たなければならないのだから云々、という反論については当然考えていたので、その点へも言及しておくべきだった。
もちろん "論争的には" 自己責任で見分けられなければならないのだが、「見分ける目」を持っている人とは、好い加減な速報など必要としない人である。原文をすらすら読めて、内容の概略を間違いなく把握出来るレベルでないと、本当に参考になるかそうでないかを見分けられないのだ。これは外国語の訳だけではなく、技術の論評や政治、思想などについて書かれてあるネット上に散在する様々な記事についても当てはまる。
自己責任とか表現の自由といった "論争的には" 勝てる議論を持ち出した所で、「見分ける目」を持つためには見分ける当のものに相当精通していなければならないのだから、事実上は循環論に陥ってしまうだけなのだ。